憧れ。


by w-rainbow-rieko
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カテゴリ:心に響いたこと( 160 )



明後日6日に今図書館で借りている4冊を返却しに行くということもあり

もう一度、読みました。


『ブッダの教え一日一語 ~今を生きる366の智慧~』

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1回目に読んで、うん、って思った箇所

2回目に読んで、また、うん、って思った箇所

を、自分のために、ピックアップしておこうと思って

書き出しました。


以下、抜粋です。(長いので、前半と後半に分けました。)





1月 

『焦って悩む世の中で、落ち着きを保って楽しく生きよう。
 焦って悩む人々の中で、落ち着いた人間として生きてゆこう。』



21日 【ノーマルライフ】

シンプルライフというのは、そうでない生き方のおかげで成り立っているのです。
ファーストライフが悪いのだったら、スローライフも悪いのです。
私たちに必要なのは、ノーマルライフなのです。
何かを敵にして対立する生き方ではないのです。
焦ることもなく、止まることもなく、自然に流れるような生き方がすばらしいのです。



23日 【光からさらなる光へ進む道】

私たちは、それぞれの願いや希望を抱き、自分の「光」にして生きています。
しかし、その願いや希望は、私たちの心を支配する欲や怒り、
無知という煩悩の「暗闇」から発しているのです。
破壊的エネルギーである煩悩から生まれた願いや希望は、
「光」ではなく「炎」となって、人生に大きな悩み苦しみをもたらします。
ブッダは、「暗闇」から生まれた願いや希望を捨て、
「いま、正しいことを行う」生き方を示されました。
それが中道・八正道です。
「気づき」という光から、「智慧」というさらなる光へ進む道なのです。



30日 【豊作でも凶作でも】

仏教の考え方は、「どんなときにでも幸福」ということなのです。
畑をつくることも幸福、水をあげることも幸福、肥料をあげることも幸福、
雑草をとることも幸福、成長を見守っていることも幸福、
実って作物を収穫することも幸福なのです。
もしも凶作になっても、いい経験を積んで心が動揺しないことを学べるから、それも幸福です。
ものごとを客観的にみる人は、不幸に陥ることはありません。




2月

『世間のものごとに触れても、心が動揺しないこと、憂いがなく、汚れがなく、
 安らかであること、これが最上の吉祥です。』



6日 【その瞬間で気づいたら】

何事も「それをする瞬間」というものがあります。
悪いことをするにしても、怒るときにしても、「その瞬間」があるのです。
大切なことは、「その瞬間で気づく」ことです。
瞬間の感情というものは、気づいた瞬間に、完了してしまうのです。
瞬間で気づいたら、その瞬間で問題は完了します。
後で悪い結果にはなりません。



8日 【波立たない心】

自由な心とは、どんなことがあっても波立たない、揺らぐことのない心です。
揺らがない人は、何か反論されても、感情的になることはないのです。
感情的になるのは、すでに「負けている」ということなのです。




3月

『この法(仏道)は少欲の人のものであり、多欲の人のものではない。
 この法(仏道)は足りることを知る人のものであり、不満な人のものではない。』



6日 【本当に必要であれば手に入る】

観念的に単に「ほしい」というのではなく、自分に本当に必要であれば、
そのものは簡単に手に入るのです。
必要なものは、自分で獲得する能力が備わっているからです。
必要でないものを「ほしい」とがんばるから、うまくいかないのです。
具体的に必要であれば、しっかりとがんばれるのです。
あたふたしなくていいのです。



7日 【「得る道」ではなく「捨てる道」】

仏教は、「得る道」ではなく、「捨てる道」を教えます。
捨てる生き方を歩もうとすると、身も心も軽くなって、楽な気持ちがずっと続きます。
「得る道」は、依存を増幅する道です。
不自由な道です。
「捨てる道」は、自由を獲得する道です。



8日 【鳥は足跡を空に残さない】

悟った人は、すべてのものが無常であることを実感して生活します。
だから、何も溜めることはありません。
心に何の不安もありません。
食事さえも、体を維持するために必要な量だけに限ります。
鳥が空に足跡を残さないように、悟った人の行方にも、足跡はないのです。




4月

『物惜しみする人は天界に行けない。愚か者は布施を賞賛しない。
 しかし賢者は布施に随喜し、それによって彼は来世に幸福となる。』



2日 【「役に立つ」とは】

人は、何かしら他と関係をもって生きています。
生きているということは、関係性です。
その関係性の中で、何か「役に立つ」ことが大切です。
「役に立つ」といっても、決して大それたことではありません。
お茶を入れてあげたり、微笑んだり、ちゃんと挨拶するとか、そういった小さなことなのです。
それによって、人の気持ちを穏やかにさせたり、気分よくさせることが
「役に立つ」ということです。



3日 【布施とは何か】

「役に立つ」というのは、生命を支えること、喜ばれることです。
生命は他から支えられないと、成り立ちません。
生きるとは、あらゆるものに支えられていることです。
それは、「布施されている」ということなのです。
だから、多量の布施を受けて生きている私たちは、
「他の役に立つ」という布施を行わなければならないのです。
例えば、公園の空き缶を拾うとか、マナーを守るとか、そういう些細なことでも役に立つのです。



4日 【一人の行動は全体に影響を与える】

一人の行動ということが、全体に影響を与えるのです。
それは、地球全体にも通じるのです。
一人が勉強すること、挨拶すること、微笑むこと、それが社会全体の調和を守っていくのです。
自分という一人の行動がとても大切な価値をもつのだと分かれば、やる気が出てくるでしょう。



28日 【問題を解決するためには】

問題解決するためには、まず自分のエゴに気づくところが出発点です。
「あなたのためにやっている」と思っているところに、問題があるのです。
「人のため」と言いながら、「自分のため」にやっていることが多いでしょう。
「やらせてもらって、ありがたいです。
充実感が得られて幸せです」という気持ちがあれば、うまくいきます。
結局、すべては自分のためにやっていることなのですから。




5月

『怒っている人に対して、逆に怒らない人は自分と他人という両方に、
 有意義な行為をしているのです。』



17日 【親孝行できる人】

親に頼らない人が、親孝行しているのです。
はやく自立して、親に頼らないようになった人は、ちゃんと親を喜ばせます。
そして、親が優しくしてくれたこと、親切にしてくれたこと、叱られたこと、叩かれたことなど、
思い出す度に、「随分よくやってくれたなあ…」と感じたり思い出したりして、
笑ってしまえるなら、それは親孝行できる人です。




6月

『世尊の法(ブッダの教え)は、善く正しく説き示された、実証できる、普遍性があり永遠たる
 「来たれ、見よ(誰でも試して確かめてみよ)」と言える、実践する人を涅槃へ導く、
 賢者たちによって各自で悟られるべき、教えである。』



8日 【ブッダが説く「信」とは】

ブッダが説く「信」とは、根拠もなく、言われるままに信じることではありません。
何事も、自分でしっかりと調べて、理解して、納得していくことなのです。
仏教への「信」を確立するというのは、ブッダの説かれた真理を自分自身で調べて、
理解して、納得することです。
「信]
は、「智慧の開発」と切り離せないのです。
ですから、仏教が説く「信」は、「確信」と理解した方がよいのです。



11日 【自分で吟味して納得する】

真理だからといって、ブッダの教えをそのまま鵜呑みにする必要はありません。
疑問があったら、納得いくまで調べて、吟味すればいい。
それが仏教的な態度です。
もし自分に理解できないと思ったら、そこは保留すればよいのです。
学び続けて、能力が向上すれば、仏説はすべて真理であると、
自ら発見できるときが来るのです。
世間のことも、仏教の学び方を応用して勉強してみることです。
世間の知識は真理とは限らないから、客観的・科学的に調べた結果、
間違いが明白になったら、それを捨てる勇気をもちましょう。



21日 【「いいこと」と「悪いこと」】

「いいこと」とは、「自分が喜び、他人も喜ぶ」。
そして、「後悔しない」ことです。
「悪いこと」とは、「自分が苦しみ、他人も苦しむ」。
そして「後悔する」ことです。
自分には喜びであっても、他人に迷惑をかけるのは、いいことではありません。
また他人には喜びであっても、自分が苦しむのも、いいことではありません。
わずかでも後悔すると思うならば、そういう行動はやめましょう。



25日 【大事な栄養】

人間の栄養となる食べものは、米やパン、野菜や肉などだけではありません。
それらは肉体に与える物質に過ぎません。
私たちが「見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、触れるもの、思考するもの」も、大事な栄養です。
これらも食べものと同じように、汚れたものはとってはならないのです。
気をつけて、清らかなものをとるようにしましょう。



26日 【心にも清らかな食べものを】

心にも栄養が必要です。
「何かをしたい」という意思も栄養です。
何かをしなければ気が済まない、いつも何かをやりたいという気持ち、それらも栄養なのです。
心は、自分自身が栄養となって、次の心をつくるのです。
清らかな心を栄養として、次につくられる心はまた清らかです。
心に汚れが入ると、次につくられる心も汚れてしまうのです。
だから身体の健康のために食べものを清潔にするのと同じく、
心の健康のために「今の心」を常に清らかにしておかなければいけません。




7月

『過去を追うことなく、また未来を願いゆくことなし。
 過去は既に過ぎ去り司もの、未来はまだ来ぬもの故に、
 現に存在している現象を、その場その場で観察し、揺らぐことなく動じることなく、
 智者はそを修するがよい。』



6日 【「いま・ここ」が妄想を止める】

妄想を止めるには、どうしたらいいのでしょうか。
「いま・ここ」の自分を観察することで、妄想は止まります。
そのために、具体的なやりやすい方法があります。
いま行っていることに、心を集中させるのです。
心がいまより一分前(過去)のことにも、一分先(未来)のことにも、
引っ掛からないようにするのです。
そうすると、妄想が止まります。
でも、油断しないで下さい。
心は「いま・ここ」から脱線したがるのです。
心は、破壊的な妄想が好きなのです。
そんな心のからくりに負けないように。



8日 【やるべきことは、目の前にある】

「何をしていいのか分からない。教えて欲しい」と言う人が、よくいます。
そういう人は、妄想に時間を費やしているだけです。
自分を見ようとしないで、人から評価されたいという思いだけがあるのです。
自分は何をしたらいいのか、それは、目の前にあるでしょう。
そのときやるべきことは、常に目の前にあるのです。それを淡々とやればいいのです。



16日 【知識ではなく智慧が不可欠】

知識は、なくては困ります。
しかし、ありすぎても困るのです。
知識は増えれば増えるほど、人生は重くなります。
そして、その知識はいつか消えてしまいます。
欠かせないものは、知識ではなく、智慧なのです。
智慧とは、その瞬間その瞬間に、正確に何をなすべきか、閃くことです。



17日 【智慧はいつでも正しい答えを出す】

智慧には主観がありません。
主観のないとき、智慧があらわれるのです。
主観がないと、あるのは、できごとだけ。
そのときには、いつでも唯一の答えがあります。
そこに選択はないのです。
だから、智慧のある人は、いつでも正しい答えが出せるのです。
コーヒーがこぼれたら、「雑巾で拭く」ということが答えでしょう。
知識で考えると、「いま拭かなくてもいい」とか「ほうっておけばいい」とか、
選択肢がたくさん出てきます。
しかし、どれも唯一の正しい答えではありません。



19日 【「得たもの」と「なったもの」】

知識はやがて消えますが、智慧は消えません。
智慧は、主観を破った状態であらわれます。
それは、特別な「何かを得た」ことではないのです。
「なった」世界です。
知識のように「得たもの」は重いし、智慧のように「なったもの」は重くはないのです。



21日 【いちばん効く薬は、慈しみと智慧】

心の頑固さという錆は、絶えずきれいに落としておかなくてはいけません。
放っておくと、ますます錆びてしまうからです。
心の錆にいちばん効く薬は、慈しみと智慧です。慈しみと智慧によって、
心の錆が消えるだけではなくて、錆びる原因までなくなってしまうのです。



22日 【「何もない」ことが智慧】

智慧とは、特別に「何かがある」ことではありません。
実は、「何もない」ことなのです。
心の中に、ある価値判断や尺度をもっていると、それに当てはまるものしか見えません。
何か知識にしがみついていると、それで頭が一杯で、他のものが入らなくなってしまいます。
頭の中に何もない場合は、そのときそのとき、何でも入ってしまい、理解が早いのです。
更に、得たものに執着しないで持ち運ばないのが、智慧のある人なのです。



23日 【一切の概念から解放される】

智慧があるというのは、心の中に先入観や価値判断がなく、
様々な概念で固まっていないことなのです。
一切の概念から心が解放された状態です。価値判断にしがみついたり、
知識にしがみつくと、心は柔軟性を失って固く狭くなります。
その心には、新しいものは何も入りません。
智慧のある人の心には、何でも入ります。
その瞬間に判断もできます。
しかし、それによって執着することもなく、また空(くう)に戻るのです。



24日 【智慧は水のようなもの】

氷や雪には形があるので、扱いにくい。
水は、何も形がないので、どんな形もとれます。
知識とは、色々学んで氷のように、形をつくることなのです。
たとえ美しい氷の作品であっても、それは固いのです。
智慧は水のようなものです。
形はありませんが、その都度その都度、何の抵抗もなく、
容れものの形をとります。
だから、智慧のある人には、解決できない問題は何もないのです。



27日 【あなたは何者か】

私たちは、いつでも「考え」が先にあります。
考えてから喋る。
考えて行動する。
だから、「あなたは何者か」ということは、「あなたが何を考えているのか」で、分かります。
暗い思考をもっていれば、暗い人になります。
汚れた思考をもっていれば、汚れた人になります。
明るい心でいれば、明るい人になります。




8月

『他人は自分の主観にとりつかれ、しがみつき、捨てられないでいるが、
 我々は自分の主観にとらわれず、しがみつくことなく、簡単に捨てられるように戒めよう。』



3日 【解決できないことは何ひとつない】

すべてのものごとは、起こるべくして起こるのです。
ところが自我は、ものごとを「起こさせよう」とか、「止めさせよう」とします。
そこに問題が起きるのです。
自分という主観を消してみれば、ものごとが客観的に見えてくるのです。
そこにあるのは、ただ行為だけですから、何のこともなく整理整頓できます。
客観的になった人にとっては、解決できないことは何ひとつないのです。
だから人は主観を捨てて、客観的になるべきです。



8日 【錯覚を破って自然体で生きる】

自我というのは錯覚の産物です。
それを発見した人の心は、想像を絶するほど軽くなるのです。
ちょっと言葉では表現できないくらいです。
「無我」だと分かれば、ものごとに、好きだ、嫌だ、苦しいのだ、大変だ、
等々の判断をすることはなくなります。
しかし、1日元気でいるのです。
無理をして体と心を痛めることも、怠けて後で悩む羽目になることもないのです。
自我は無いと発見した人は、自然体で誰よりも最高の働きをしてみせるのです。



11日 【主観を破ったところに智慧がある】

智慧とは、どんなときにあらわれるのでしょうか。
主観を破られたところに、智慧があるのです。
何かの見解、尺度、見方、立場などがなく、心が解放された状態なのです。
空気を見て下さい。
何の形もなく、何の抵抗もなく自由にどこにでも入ります。
智慧も同じです。
生きる上で起こる如何なる問題も解決してしまうのです。




9月

『今日こそ努め励むべきなり、誰が明日の死を知ろう。されば死の大軍に、我ら煩うことなし。
 昼夜怠ることなく、かように住み、励む。
 かは正に「日々好日」と、静寂者なる牟尼(むに)は説く。』



10日 【無邪気な子供のように】

小さな子供を見て下さい。
シャツのボタンをはめられたとか、自分で靴を履けたとか、ささいなことに大喜びしますね。
私たちも、毎日の出来事に対して、子供が初めて成功したときのように充実感と達成感を
得られれば、とても楽しく、明るく生きることができるはずです。




10月

『これらの法(教え)が善であり、欠点なく、識者が奨励するものであり誰かがそれをすべて
 実践すれば有益であり、楽のためになる、とカーラーマ村の皆さんが自ら知るときは、
 皆さんそれらの法(教え)を学び、実践しなさい。』



16日 【巨大な能力】

人間には、巨大な能力があるのです。
ところが、私たちはそれを発揮できないでいます。
能力を発揮できないのは、自分で自分を制限しているからです。
そして、そのことに気づいていないのです。
他人に自分を合わせようとしたり、世の中で成功しているパターンに
自分を当てはめたりしようとすると、自分で自分を縛ってしまい、
能力は制限されてしまうのです。



27日 【自分の心を育てる】

両親は、子供のことを我がことのように心配してくれます。
たとえ悪事をはたらいて刑務所に入ったとしても、親は子を無条件で愛してくれるものです。
しかし、そんな親にも与えられない幸福を、
自分で自分にプレゼントできることを知っていますか?
正しく育てられた「自分の心」こそが、他の誰よりも優れた、究極の幸福を与えてくれるのです。
もしあなたが幸福になりたいのなら、他人の愛情に期待するのではなく、
「自分の心」を育てることです。



31日 【学び続ける人は花が咲く】

「分かりたい、学びたい」と真剣に求めている人は、ほんの少しでも真理に触れたならば、
すぐにそれを理解することができます。
舌がちょっとでもスープに触れれば、味が分かるように。
「自分は何も知らない」として、学び続ける人は、必ず花が咲きます。
「私は知っている」と言う高慢な人は無知で終わります。
スプーンがスープの味を味わえないように。
「私は何も知らない」と言う謙虚な人が賢者になる理由を、ブッダはそう説いたのです。




11月

『善行為をする人は、この世で喜びあの世でも喜ぶ。
 善行為をしてよかったと、天界に生まれてなおさら喜ぶ。』



26日 【無常は可能性に満ちている】

無常というと、否定的で厭世的なイメージを抱く人が多いかもしれません。
しかし、無常とは、とても可能性に満ちた真理なのです。
すべての現象は無常です。瞬間、瞬間、変化しているのです。
物事は、変化するから「ある」「存在している」と言えるのです。
変化しないものは、存在しないのです。
私たちも、息を吐いたり吸ったりする度に、新しい自分に生まれ変わっているのです。



28日 【無常こそが存在のありよう】

この世の中で変化しないものはありません。
無常こそが存在のありようなのです。
無常という真理を認める人は明るく、活発になります。
自分もすべてのものも、絶えず変化することを知る人は、心の安らぎを経験します。




12月

『あたかも母が、たった一人の我が子を命がけで守るように、
 そのようにすべての生命に対しても、無量の「慈しみの」心を育てて下さい。』



1日 【ブッダの教えは常に新しい】

ブッダの教えは、二千五百年も経っていますが、決して古くなりません。
その教えは、常に「新しい」のです。
それはそのはずです。
ブッダは、生きることに対する真理を語ったからです。
ブッダは、「どう生きるべきか」「生きるとは何か」を語ったのです。
時代がどう変わっても、科学が如何に発達しても、生きている私たちの問題は常に重大です。
生きることに対する真理は、常に新しいのです。



11日 【すべての生命が幸福でありますように】

慈悲の心を育てるには、どんなときでも、
「すべての生命が幸福でありますように」という気持ちを育てていくのです。
そして、できるだけ怒らないように気をつけます。
ひとたび怒ったならば、慈悲の心は消えてしまうからです。
慈悲の心は一切の生命に対して、徐々に広げていくものです。
慈悲の心が生まれてくると、エゴの幻想が消え、主観の問題も消え、心が解放されるのです。



17日 【自分を手がかりにする】

自分を手がかりに真理を発見することが、仏教の修行の目的です。
よい人間になろうと思っても、そう簡単にはなれません。
そのような考えは放っておいて、ひたすら、今の自分に気づくことに努めるのです。
気づきの実践で真理を発見すると、心の汚れは消えてしまいます。こだわりが消えて、
心の自由を味わうのです。
そのために、外から別の自分が観るように、客観的に自分自身を観察するのです。
それが、自分を手がかりに真理を発見する方法です。



18日 【心のパターンが見つかる】

ブッダの瞑想では、今生きている自分を観察するのです。
観察すると、まず身体の働き、次に感情の波などが見えてきます。
更に、心のパターンも見えてきます。
いつも、こういうときに怒りが出てくる、トラブルを起こしてしまう、寂しくなる、等が見えてきます。
気がついたとき、今の膠着していた悩みから解放されます。
同じ問題が二度と起こらなくなります。
心の安らぎが得られます。



25日 【感情に栄養を与えるのは、自我】

感情に栄養を与えるのは、自我です。
だから、自我がなくなれば、その感情は壊れてしまいます。
「痛い」と言ってしまうと、そこに自我があります。
すると、苦しみが訪れるのです。「痛い」ではなくて、「痛み」と観るだけでいいのです。
感情というのは、無知によって生起したものだから、
感情を客観的に確認するだけで消滅してしまうのです。



29日 【たった一切れで】

普段の食事そのものを、瞑想として体験してみて下さい。
きっと新発見があります。
今まで経験したことのない、食べものの微細な味が分かります。
ニンジン一切れでも、食べる行為をよく確認しながらいただくと、
素材の本来もっている味・香り・感触が、びっくりするほど感じられます。
たった一切れでも、とてつもない幸福感、安らぎを与えてくれるのです。
体の細胞一つひとつが感動します。
そして、たちまち健康になります。



30日 【些細なところから落ち着く】

ゆっくりと丁寧に食事をしていると、最初は苛立ちが出てくるかもしれません。
しかし諦めないで、実践してみるのです。
丁寧な食事ができるようになれば、人生の様々な苛立ちも、消えてしまいます。
日常の些細なことから、ひとつずつ落ち着きを体得していけば、
人生はいつでも落ち着けるようになるのです。
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by w-rainbow-rieko | 2015-05-04 09:34 | 心に響いたこと



昨日偶然、突然、知りました。

大切な人の名前、名字は、花の名前。

でした。


下の名前には『樹』が入っているので

自然と共に生きる星の元に

生まれてきたんだろうなぁって

思います。


わたしにも『梨』が入っているし

何だかそれだけのことなんだけど


とってもとっても

嬉しい

です。


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by w-rainbow-rieko | 2015-04-29 07:25 | 心に響いたこと


本当に思いもよらないときに

ふっと

訪れるから不思議。


何かを求めてるとき、何かを欲してるとき、は

一向に出逢えなかったりするのに


心がいい意味で無のとき

それは本当に

ビックリするくらい自然に、でも、突然、目の前に現れる。



毎回、すごいな、ってホント思う。


今日、偶然、出逢ったのは酒巻剛さんというストリートミュージシャン、でした。


明日も同じ場所で歌うそうなので、また聴きに行ってみようと、思います。


酒巻剛さんHP→★★★

視聴できます→1st

視聴できます→2st


この偶然の出逢いから、また、新たにつながりが生まれたら、素敵だな。
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by w-rainbow-rieko | 2014-05-27 23:58 | 心に響いたこと


自分の心が限りなく透明になり

穏やかで安らかで凪いで

くると



わたしの余白に、入ってくるもの の 質、みたいなものが

変わってくるから 不思議





今、届いた致知のメルマガ です。

良かったら ご覧下さい。




──────────────────────────
  今日の一言 平成26年5月16日(金)
──────────────────────────


 人生で遭遇すること、
 それらに真剣に向き合うことで、
 おのずとその人の人生と
 その意味が浮かび上がってくるのではないかと思う。

 探して見つかるものではけしてなく、
 今を一生懸命生きる中、
 「そこにある」ことを見つけるのが、
 その人にとっての人生の意味のなのではないかと思う。

 「Not Doing, but being.」であるのだろう。


 ――『死ぬときに人はどうなる10の質問』(大津秀一・著)


      * * * * *



 V.E.フランクルの以下の言葉は
 大きな示唆を与えてくれる。

 非常に有名な、彼の根本の主張の一つである。
 彼は語る。


 「もし患者に、自分の人生の意味は何なのだ、
 と聞かれたら何と答えるべきだろうか。

 医者が一般的な言葉で
 これに答えられるとは思えない。

 人生の意味は人によってさまざまであり、
 時々刻々変化するものだからだ。

 大切なのは一般的な人生の意味ではなく、
 いま現在のその人にとっての人生の意味なのだ」


 「人生において遭遇するそれぞれの状況は、
 人に与えられた試練であり、
 解決すべき問題を提起しているのだ。

 そう考えると、
 人生の意味は何かという問いかけは、
 実は逆なのである。

 結局のところ、
 人生の意味など問うべきではなく、
 自分自身がそれを問われているのだ
 ということに気がつくべきだ。

 つまり一人ひとりが、
 人生からその意味を問われているのであり、
 自分自身の人生のすべてを引き受ける、
 つまり責任ある生き方をすることによってのみ、
 それに答えることができるのだ」
 と。


 人生の意味を問うのではなく、
 問われているのだというのだ。

 人生が、あなたに問うている、という。
 発想の転換である。


 私も、人生には意味があると思う。

 しかし、考えても考えても
 わからないのではないかと思う。

 意味を求める限り、
 それは出会わないものなのではないか。

 人生で遭遇すること、
 それらに真剣に向き合うことで、
 おのずとその人の人生と
 その意味が浮かび上がってくるのではないかと思う。

 探して見つかるものではけしてなく、
 今を一生懸命生きる中、
 「そこにある」ことを見つけるのが、
 その人にとっての人生の意味のなのではないかと思う。


 「Not Doing, but being.」であるのだろう。
  


 『死ぬときに人はどうなる10の質問』(大津秀一・著)
  → http://online.chichi.co.jp/products/detail.php?product_id=1164







『大切なのは一般的な人生の意味ではなく、いま現在のその人にとっての人生の意味なのだ』


わたしも そう、思います。
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by w-rainbow-rieko | 2014-05-16 09:53 | 心に響いたこと



出会い と 出合う


は違うんだ、って。



今朝、分かった。



これを、読んで、分かった。



目が覚めて、携帯に届いていた致知のメルマガ


読んで、


布団の中で、


涙が


こぼれた。



-------------------------------------------------------------


 ~致知出版社が贈る人生を養う言葉~


 兵庫県の小さな町で55年間、
 教職者として一生を捧げた東井義雄先生。

 百千の灯あらんもわれを待つ灯はひとつ

 東井先生によるこの歌には、
 一つでも多くの家庭が、
 子どもたちをやさしく包み込むような、
 温かい灯を絶やさないでほしいとの
 願いが込められています。

「教育界の国宝」と謳われた東井先生に、
 親と子の本当の出会いを学びます。


──────────────────────
  今日の一言 平成26年5月15日(木)
──────────────────────


 おかあさん、
 ぼくはりっぱなひとになりますから、
 いつまでもいつまでも、
 ぼくのむねの中から
 どっこへもいかずにみていてください。


   ――『子どもの心に光を灯す』(東井義雄・著)


      * * * * *



 今、この「出会い」が
 粗末になっているのではないでしょうか。

 “出会う”ということは、
 ただ顔と顔とが出会ってる、
 こんなのは“出会い”のうちに入らないのですね。

 だいぶ前になりますが、
 全国の小学校の子どもたちから、
 「お母さん」という作文を集めたことがございます。

 その時に、横須賀市の沢山小学校の、
 浦島君という一年生の男の子の作文が入選しました。

 ちょっとそれをお聞き下さい。


 ○


 『ぼくのむねの中に』


 「おかあさん、おかあさん」
 ぼくがいくらよんでも
 へんじをしてくれないのです。

 あのやさしいおかあさんは、
 もうぼくのそばにはいないのです。

 きょねんの12月8日に、
 かまくらのびょういんで、
 ながいびょうきでなくなったのです。


 いまぼくは、たのしみにしていた
 しょうがく1ねんせいになり、
 まい日げんきにがっこうにかよっています。

 あたらしいようふく、ぼうし、
 ランドセル、くつで、
 りっぱな1ねんせいを
 おかあさんにみせたいとおもいます。

 ぼくはあかんぼうのとき、
 おとうさんをなくしたので、きょうだいもなく、
 おかあさんとふたりきりでした。

 そのおかあさんまでが、
 ぼくだけひとりおいて、
 おとうさんのいるおはかへ
 いってしまったのです。

 いまは、おじさんおばさんのうちにいます。

 まい日がっこうへいくまえに、
 おかあさんのいるぶつだんにむかって、
 「いってまいります」をするので、
 おかあさんがすぐそばにいるようなきがします。

 べんきょうをよくしておりこうになり、
 おとうさんおかあさんに
 よろこんでもらえるようなよいこになります。


 でも、がっこうでせんせいが、
 おとうさんおかあさんのおはなしをなさると、
 ぼくはさびしくってたまりません。


 でも、ぼくにもおかあさんはあります。


 いつもぼくのむねの中にいて、
 ぼくのことをみています。

 ぼくのだいすきなおかあちゃんは、
 おとなりのミイぼうちゃんや、
 ヨッちゃんのおかあさんより、
 1ばん1ばんよいおかあさんだとおもいます。


 おかあさん、
 ぼくはりっぱなひとになりますから、
 いつまでもいつまでも、
 ぼくのむねの中から
 どっこへもいかずにみていてください。


 ○


 と結んでいるんですが、
 この浦島君は、
 もはや世界中のどの国を探しても、
 お父さんの顔にも、お母さんの顔にも、
 顔と顔の出会いのできない
 しあわせの悪い子どもです。

 しかし私は、
 浦島くんはしあわせ者だと思います。

 なぜか、いつでも、どこへ行っても、
 離れてくださらんお母さん。

 ミイ坊ちゃんのお母さんや、
 ヨッちゃんのお母さんより、
 もっともっといいお母ちゃんと、
 いつでも、どこでも一緒だからです。


 これが本当に出会ってる姿でしょう。

 これに比べましたら、
 毎日お父さんやお母さんの顔に
 出会っている子どもの中にも、
 お父さんお母さんの
 “お心に出会う”ことのできていない
 子どものほうが、
 しあわせの悪い子どもかもしれんと思いますね。


 しかも、この“出会い”がある限り、
 浦島君のこれからはじまる
 長い人生の間には、いろんなつらいことや、
 苦しいことがやってくるに
 違いがございませんが、
 浦島君なら、どんな難儀、苦労に出会っても、
 この、お父さんお母さんとの
 “出会い”をふまえて、
 強く生き抜いてくれるに違いないと思いますね。
  


 『子どもの心に光を灯す』(東井義雄・著)
  → http://online.chichi.co.jp/products/detail.php?product_id=1257


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出会い と 出合う の違い。




出会い、は

簡単にできる。

生きてればそれは毎日行われてる。

当たり前すぎてつつつーーって通り過ぎたり見過ごしたり

きっとそれは何百人という数に、なるんだと思う。


逆に言うと

ひとりひとり覚えていたり気にしていたら

疲れちゃって神経マヒしちゃうから

つつつーーーっでいいんだけど。




でも、


出合う


ということは

簡単ではない。



合う 人 と 出逢う ことって 本当に難しい。


と、思う。




合う って いう その感覚も

人それぞれ違うと思うけど


わたしの場合


波長

話すスピード

雰囲気

笑顔

ことばづかい

心づかい



物を丁寧に扱う

空気感

想い

感性



オーラ



こういう感じ


合う というか うん あれだな



気持ちいいな この人

とか

心地いいな この人

とか


もっと一緒に居たいな

とか

もっと知りたいな

とか


そういう 自分の中から自然と 満ち溢れてくる

「もっと」という 想い であり、願い であり



性別を超えた 人をも超えた


ずっとずっと 繰り返し 輪廻してきた

魂そのもの




魅かれる


そういう感じ



あ、この人、

と思う瞬間


それは決まっていちばん最初、なんだけど


その瞬間が わたしにとっての 「合う」


に繋がってる



そう、思います。



そして、それって

実際に会える人 会えた人

実際には会っていない人 まだ会えていない人


ということは全然関係ない。



魂 っていうのは

あらゆるところから

見えるものだから

感じるものだから


実際に会ってるか会ってないか


ということは 関係ないし ちっとも問題じゃ ない。


清らかで丸くあったかい心そのものに

寄り添え合えるか どうか

それが それだけが 全て。



でも、これは、あくまでも「わたし」の場合、

なので

全ての人が

そう、この日記を今読んで下さってる方、貴方、貴女、あなた、



わたしと同じように 思って下さったり 分かるって言って下さったり


ということは無い ということ

もちろん分かっています。



だって それが 自然なこと だから。



ひとりひとり違って当たり前


わたしはこうなの

あなたはそうなのね

ふふふ


って 笑ってお話できる


それが いいな、って思うんです。


そういう関係が いいな、って思うんです。



違う ということを 突つき 抉り 傷つけ 責め 罵り 蔑み

するんじゃなくて

違い を 認めて 見守る 

最低限の範囲でケガだけはしないように、って見守ってくれる

いざってときは助けるよ!ってガッツポーズと笑顔を向けてくれる

そういう人たちと ずっと 繋がり続けられたら 素敵だな、って思うんです。


もちろんわたし自身も、誰かにとって、大切な人にとって、

そういう人で そういう存在で 在り続けたいな って思っています。



もし、こんな風に、同じように、思っていただける方がここにいらしてくれたら

そして 既に、出合っていただけていたら



それは 

とってもとっても

嬉しいこと



とってもとっても

素敵なこと





生きていて良かった、

生きていて良いんだ、

って


思える



とってもとっても

素晴らしいこと



出合って下さった方

これから

出合って下さる方


本当に、どうもありがとうございます☆





【追加】


あ、この人、

って思う瞬間

出合いたいと思う人に出合えた瞬間に

わたしの中に流れる音楽



これ、です、やっぱり。


「きときと」



この映像も何回観ても本当に気持ちいい。清々しくて、泣けてくるほど焦がれる。


『おおかみこどもの雨と雪』


島根の雪景色

一緒に、

見ようね。
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by w-rainbow-rieko | 2014-05-15 18:47 | 心に響いたこと




◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2014年4月15日 ◆


伊與田覺(いよた・さとる)氏、99歳。


昭和の大碩学と謳われ、
歴代首相や財界リーダーたちから
師と仰がれた安岡正篤師の高弟です。


99歳のいまも3時間もの講義をこなし、
背筋のピシッとした立ち居振る舞いは
いささかも老いを感じさせず、
感動を禁じ得ません。


矍鑠たる人生の達人が語った
新入社員に贈る「仕事の心構え」とは――。


┌──────今日の注目の人───────┐



   「学び、そして覚ること」
        

   伊與田覺(論語普及会学監)
   
      
  ※『致知』2014年5月号
    連載「巻頭の言葉」


└────────────────────┘

私たちが天から与えられた「性(せい)」、
すなわち各人固有の特質を存分に発揮して
人間として完成するには、
その目標に到達するためのルール、
つまり「道」を知らなければなりません。


私たちに道を教えてくれるのが、
優れた先人です。


生きながらにして道を悟り、
人間完成に近づいた人が、
後から来る人のために残した道標が「教え」です。


私たちは、優れた古典を通じて
先人の教えを素直に学ぶことによって
道を知り、道を歩んで性に到達することができるのです。


しかし、道には近道もあれば遠回りもあり、
また、自分の足の力によって歩ける道も異なります。


孔子やお釈迦様の足と、
私たちの足が違うのは当然です。


ゆえに、学びを重ねていく中で、
自分はどの道を歩んでいくことが
一番適切かが分かることを「覚(さと)る」といいます。


「覚」(覺)という字は冠の下に見ると書き、
自分で見てちゃんと確かめることを表します。


学んだだけでは不十分であり、
学んだことを自分が納得、理解することによって、
天から与えられた道を自分の足で歩いて行けるのです。


覚るという言葉にはいろいろな漢字が当てはまり、
これらを見てゆくと、その真意が見えてきます。


「暁(あかつき)」という字を
「暁(さと)る」と読むのは、
明け方になって日が射してくると、
それまで暗闇で見えなかったものが
ハッキリと見えてくるところからきているようです。


「了(お)わる」という字を
「了(さと)る」と読むのは、
了わりを求めて歩み続けるところに
人間の尊さがあることを示唆しているように思われます。


また、「悟る」の五は五本の指であり、
「吾」はそれを口に当てて黙っている様子を表しています。


口では話せないのが本当の覚りの境地なのです。


商売のコツを覚っている人が、
いくら言葉を尽くして説明しても、
相手はその真意を本当に理解することはできないでしょう。


そのコツは、その人が成功したり、失敗したり、
様々な体験を重ねていく中で会得したものであり、
曰く言い難しなものだからです。


会社の仕事も同様です。


新入社員は新しい情報によく通じているでしょうが、
だからといって仕事を十分にこなし切れるわけではありません。


まだ仕事のコツを覚っていないからです。


その意味では、日々仕事に真剣に打ち込んで
キャリアを積み、コツ(骨)に近づいてゆくことはとても大切です。



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漢字って、ホントに面白い。

そういや、中学のときのクラスメートに悟くんっていたなぁ。

宗本悟くん。

細っこくて色白の恥ずかしがり屋さんで、女子が声掛けただけで顔真っ赤にしてたなぁ。


あ、ちなみに、覚と了もさとるって読むこと、今日初めて知りました。

またひとつ賢くなりました~感謝☆
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by w-rainbow-rieko | 2014-04-15 08:28 | 心に響いたこと



◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2014年4月7日 ◆


修験道の中で最も過酷な行の一つとされる
「大峯千日回峰行」。


標高364メートルにある蔵王堂を
午前零時半に発ち、延々24キロの険しい山道を登り、
標高1719メートルの大峯山頂に登頂した後、
同じ道を引き返し15時半に帰堂。


そして、自ら掃除洗濯、
翌日の準備をして19時には就寝し、
また23時半に起床して山頂を目指す。


それを5月から9月までの開山期間、
9年の歳月をかけ、1000日繰り返すという荒行です。


途中でやめる場合には、
自ら死を選ばなければならないという厳しい掟があり、
吉野山金峯山寺1300年の歴史で
この荒行をクリアしたのは僅かに2人だけ。


その一人、平成11年に30歳で見事満行を果たした
慈眼寺住職の塩沼亮潤氏が語った
「本当の心の幸福を掴む秘訣」とは――。


┌─────今日の注目の人───────┐



  「本当の心の幸福を掴むには」
        

   塩沼亮潤(慈眼寺住職)
   
      
  ※『致知』2014年5月号
    連載「致知読者の集い」


└───────────────────┘


人間とは本当に不思議なもので、
苦しい環境にあっても
心の中は感謝の念に包まれている人がいる一方で、
何一つ不自由のないように見える人が
実は心の中に苦しみを秘めていることもある――。


そこで本日は、苦と楽を超えた本当の心の幸福とは
何だろうということを、皆さんとともに
尋ねていけたらなと思っています。


こうして皆様の前に立たせていただいている私はといえば、
実は7年ほど前まで人前でお話しするのが大変苦手でした。


しかし、一所懸命修行に勤めていると
不思議なご縁に恵まれて、
ある尊敬する方から、


「あなたが体験したことを
 言葉に託して表現しなさい」


と世間に引っ張り上げていただいたんですね。


その出逢いをきっかけに、
いただいたお仕事はすべて天命だと思って
全国を息つく間もなく講演で駆け回るようになりました。


ただ、世間的な注目を浴びるようになると
驕る気持ちも起こってまいります。


だから私は


「一に勤行
 二に掃除
 三に追従(人が喜ぶことをする)
 四に阿呆(素直になる)」


というお師匠からいただいた教えを戒めとして、
「自分はあくまでお坊さんなんだぞ」と
絶えず自分の心を本来の勤めに引き戻してもいたんですね。


この7年間で様々な経験をさせていただいて分かったことは、
日常のすべてが自らの心を成長させる修行となってきたということです。


あれが好き、これは嫌いというような
わがままな心をコントロールして、
嫌なことでも逃げ出さず、
常に前向きにトライしていくことを積み重ねてきた結果、
こうして皆さんの前でお話しするという
尊い仕事をさせていただけているのだと感じています。


それは仏道修行でも同じです。2500年前にお釈迦様はこうおっしゃいました。


厳しい状況に自らを置き、わがままな心を封じ込めれば、
「悟り」という状態に至る可能性がある、と。


私はこの言葉を知った時に大変感動いたしました。


延暦寺の開祖・最澄様も同じようなことをおっしゃっていますね。


「最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得る」


どんなに愚か者でも、情熱を持ち
一所懸命一つのことに取り組めば、
必ずよき結果が開けてくる――。


だから私は、特に若い人には
苦労は買ってでもしなさいとお伝えしています。


自分を厳しい状況に置いていると、
ある日不思議なご縁に恵まれて、
パッと運命が花開くチャンスが訪れる。


要するに、人生というのは、
そのチャンスをしかるべきタイミングで掴み取るべく、
掛け替えのない日々の出逢いを大切に、
絶えず修行を怠らないことにあるのだと思うのです。


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「最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得る」


どんなに愚か者でも、情熱を持ち
一所懸命一つのことに取り組めば、
必ずよき結果が開けてくる――。



12年。

わたしにとっては今年がその年です。


この12年目の今年をひとつの区切りとしたいと、思います。
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by w-rainbow-rieko | 2014-04-07 09:10 | 心に響いたこと


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 今日の言葉  平成26年4月4日(金)
────────────────────────


ピーター・ドラッカーは
日本型経営を非常に支持した人なんですが、
ものを決する際の
優先順位というのを説いているんです。


第一に、過去ではなく未来を選ぶ。

第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。

第三に、横並びではなく独自性を持つ。

第四に、無難で容易なものではなく、変革をもたらすものを選ぶ。


そしてドラッカーは、この四つを選ぶのは
知識や見識や分析力ではなく、
リーダーの勇気だと説いています。

この勇気を日本流に説明すると、
胆識だと私は思います。


牛尾治朗(ウシオ電機会長)




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決めるのは自分。

大丈夫。

その決断はいつだって、全部、正しい。
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by w-rainbow-rieko | 2014-04-04 13:30 | 心に響いたこと

致知より。



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 今日の言葉  平成26年3月26日(水)
───────────────────────────


晩年の松下幸之助氏は、
「感謝と畏れを忘れるな」とよく言ったという。

人生には人知をはるかに超えた働きがある。

その目に見えないものに対する畏敬の念を失った時、
何が起こるか。

その恐ろしさを熟知した人ならではの、
人生の急所を衝いた言葉である。


 『人生の大則』 藤尾秀昭 著(致知出版社刊) 
      ⇒ http://tinyurl.com/kfsgzkn



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◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2014年3月26日 ◆


かつて99歳で『論語』を講じる人が
存在したでしょうか?


伊與田覺(いよた・さとる)氏、白寿。


昭和の大碩学と謳われ、
歴代首相や財界リーダーたちから
師と仰がれた安岡正篤師の高弟です。


99歳のいまも3時間もの講義をこなし、
背筋のピシッとした立ち居振る舞いは
いささかも老いを感じさせず、
感動を禁じ得ません。


矍鑠たる貴老の伊與田氏が語った
「人生の心得」とは――。


┌────今日の注目の人──────┐



 「人生の根本は無心になること」
         

   伊與田覺(論語普及会学監)

     
 ※『致知』2014年4月号
  特集「少年老い易く学成り難し」より


└─────────────────┘

※対談のお相手は、同じく安岡正篤師を
 師と仰ぎ、96歳のいまなお講演で全国を行脚する
 福島新樹会代表幹事の渡邉五郎三郎氏です。


伊與田 『老子』に、


「道は一を生じ、一は二を生じ、
 二は三を生じ、三は万物を生ず。
 
 万物は陰を負いて陽を抱き、
 沖気を以って和を為す」
 

とあります。


一から二を生じ、二から三を生じ、
三から万物を生ずというけれども、
この三が僕にはどうも分かりませんでした。


ところがその答えが『老子』にあって、
三とはなんぞやというたら沖気だと。


沖気というのは無心の心で、
それが両者を結ぶわけで、和気ともいいます。


その沖気の働きがすべてのものをつくっていくと。


一つのものだけでは創造ができない。
異質のものが沖気(縁)によって
結ばれて別のものになる。


万物はそうして異質のものが結ばれて
植物になり、動物になり、人間になるんだと。


その微妙な結び役というものが
目には見えないけれども存在するんですな。


去年体調を崩した時、
ベッドの上でずっと天井を見ておると、
板の継ぎ目にぶらんとぶら下がっているものがありましてね。


ゴミのような白い玉が
目に見えないような糸で結ばれていて、
これが風が吹く度にあっちこっち動き回る。


わしの生命もあんなものかと思ったら、
短気を起こすな、まぁゆっくりしてから逝けと
教えてくれているような気がして、


それから毎日寝る前に、
そのぶら下がっているものに
手を合わせるようにしているんです(笑)。


渡邉 そうでしたか。


私はこれまで安岡先生との道縁に
導かれて学んだことを踏まえて、
これだけは最後まで貫いていきたいと考えてきたことが三つありましてね。


一つはきょうのテーマである
学にも通じるもの、人づくりです。


二つ目は一燈照隅です。


どんな立場にあっても、
自分の置かれた環境を明るく照らして
よりよい方向に変えていきたい。


そして最後は、安岡先生が晩年
よく説かれていたように、
無名有力の人になること。


人知れず己をひたすら磨き高め続けていく
ということですね。


私はこの三つを貫いていくために、
なおも学の道を歩み続ける覚悟です。


伊與田 僕はきょうもこうして元気に対談しているけれども、
    99まで生きようと意識してきたわけではありません。


すべて縁であってね。
何しろこれまで10回近く入院してきたわけだから(笑)。


渡邉 あぁ、10回も入院を。


伊與田 勘定してみると全部で300日くらいになります。
    だから病気というのは必ずしも
    死に繋がるものではないということは分かります。


25歳の時には結核になりました。
当時は不治の病でしたから、
療養生活が長引いたら周りに迷惑がかかるから
早く死んだほうがいいと思うていました。


これが1回目に死を覚悟した時です。


ところがどうしてもやらなければならないことができて、
どうせ死ぬならこれをとことんやり通して
死のうと思って、薬もやめた。


ところがそれを達成したら咳も微熱も治まって、
医者から「病気は治ってますわ」と言われ、
ともに大笑いしたことがありました。


2回目に死を覚悟したのは先程もお話ししたように、
昭和20年6月15日、僕の誕生日に赤紙が来た時です。


ところが僕の所属した部隊が
艦載機の集中射撃を受けて全滅したのに、
僕1人が生き残った。


その後もがんに2回かかりましたが、
結局のところ人の命というものは
人間の計らいではどうにもならない
ということに気がつきました。


だから無心になることが根本だと。


渡邉 本当に同感ですね。
   

何とか生きたいと思っても、
こればかりは仕方がありません。


伊與田 『中庸』に、


「患難に素しては患難に行う」


とありますが、まぁ病気になったら病気になったで、
あまり気を患わさずに対していく。


そうすると割合気が楽ですね。


人生には困難がつきものですが、
そういう姿勢で乗り越えて学びを深めていく。


そうして息を引き取る時に
最も円熟した自分でありたいと念じております。



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わたしの今日のことば。

1日体験にいらして下さってた方とお話していて、

その方が幾度となくおっしゃったことば。


「先生何でそんなに優しいんですか?」


真顔で真剣に目を見つめられてそんな風に何回も問い掛けられて(若い女性です)

いやもう、びっくり。ですよ。。


この超淡泊なわたしが優しいだなんて。

この適当さ加減満載のわたしが優しかったら

わたしの周りにいて下さる皆さんは

どうなるんだ??

優しい なんてことばでは もう説明できないじゃないかー!!!


と、その後も仕事しながら、延々考えてましたあせあせ

「わたしが優しい?そんな馬鹿な!」って。


+今日致知から届いたメールに書かれていたことば

「感謝と畏れを忘れるな」

正に言い当てられた、って思いました。


完全に忘れてしまっていました。。。


思い出せて良かった。

そして同時に思った。

「全部、受け容れよう」って。

「全て、感謝して、全部、受け容れられたら、楽になる」って。

「大丈夫」って。


そんな1日、でした。



そして、今夜もやっぱり最後は整萌さんの音楽を。

尺八奏者 山口整萌さん 『kosmos』

ライブバージョンも好き
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by w-rainbow-rieko | 2014-03-26 23:22 | 心に響いたこと



◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2014年3月25日 ◆


人生には良いことも悪いことも
起こります。


それまで幸せの絶頂だったにもかかわらず、
ある日突然、深い悲しみに襲われることもあります。


不幸や苦しみが降りかかると、
「なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ……」
という思いに駆られてしまうこともあるでしょう。


しかし、すべては思い通りにならない。
良いことばかりも起きませんが、
同時に悪いことばかりも起きないのが人生です。


そのような苦楽ある人生を
私たちはどう歩んでいけばよいのでしょうか。


国際文学療法学会会長で
聖心会のシスターでもある
鈴木秀子さんが語った
「幸せを掴む魔法の言葉」とは――。


┌────今日の注目の人──────┐



 「この出来事が自分に何の益を
  もたらしてくれるだろうか?」
         

   鈴木秀子(文学博士)

     
 ※『致知』2014年4月号
  連載「人生を照らす言葉」より


└─────────────────┘


冒頭の(アメリカの教育博士ドロシー・ロー・ノルトの)詩には
「大事なことに気づく」という言葉が多く添えられています。


「大事なこと」とは
何も特別なことではありません。


それは私たちがついつい
見過ごしている日常の一コマです。


例えば、左手を怪我したとしましょう。


最初は「ああ、利き手の右手でなくてよかった」
と思います。


しかし、紐を結わくにも包丁を使うにもファスナーを開けるにも
右手だけでやろうとすると、とても不便です。


この時、左手の働きというものに気づくのです。


右手と左手がどちらも等しく大切であるように、
世の中はすべて陰陽のバランスで成り立っています。


男女、雌雄、天地、表裏、明暗、凹凸。


これらが常にバランスを保っているからこそ
社会は発展し、どちらかに傾いてしまうと
秩序は崩れてしまいます。


死も同じです。愛する家族を失った時、
誰もが深い悲しみに襲われます。


しかし一方で身近な人の死は、
自分を支えてくれる家族の温かさ、
葬儀に集まってともに涙を流してくれる周囲の優しさに触れ、
ともに悲しみを乗り越えようという
結束力が高まる大切な機会となります。


いつまでも「こんな辛いことが起きなきゃよかった」
という感情にばかり縛られていると、
そういう隠れた大切な部分が見えなくなるのです。


人生はよいことばかりは起きません。
しかし悪いことばかりも起きません。


何か嫌なこと、辛い出来事に遭遇した時には、
このように自分に問い掛けてみてください。


「この出来事が自分に何の益をもたらしてくれるだろうか。
 この辛い体験から何を学べばよいのだろうか」


『聖書』に


「神がすべてのことを働かせて
 益としてくださることを私たちは知っています」


という聖パウロの言葉がありますが、
世の中に何の意味もなく起こることは一つとしてありません。


怪我をしてしまったのも「左手をもっと大切にしなさいよ」
というメッセージだったのだろうか、
と受け止めてみることが大切です。


このように起こる出来事に感謝して
考えを切り替えることで大切な答えが見つかり、
いつの間にかバランスを取っている自分の姿に気づくはずです。


これが自立した人間の姿です。


自立というと精神的、経済的に
独り立ちした姿をイメージします。


もちろんそれはとても大切なことですが、
その根底には「相手のせいにしない」という
原理原則があることを忘れないことです。


嫌なことがあって、つい誰か他人や環境のせいにしてしまうのは
一種の心の自然反応です。


しかし、いつまでもそこに留まっていると
中心軸から離れて次々にエネルギーが奪われていきます。


これとは反対に自立した人の周囲は
常に安定して穏やかです。


穏やかな波動は、
さらに穏やかな波動を呼び寄せます。


このような自立した人であって初めて
「幸せ発信地」になれるのです。


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わたしの中でいちばん大事な日である3/25、

穏やかでいい1日に、なりますように。
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by w-rainbow-rieko | 2014-03-25 10:05 | 心に響いたこと